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 Naggi  who am I | diary

翻訳というものがいかにナンセンスか。   16 Jan 2017

私は最近Youtubeの動画を翻訳することにはまっている。パリでお金をあまり使わないように過ごしていたら、暇になったので芸術と歴史の街でYoutubeの翻訳をしている。 主に、機械学習や人工知能の技術的なものなのだが、自分の拙い翻訳にイライラしてしまう。だが、よくよく考えてみると本質的な原因は英語から日本語に翻訳す ることそのものに無理があるのだ。 いかによく翻訳されていても原作と同等のものを作り出すものは不可能であると言いたい。 一般的に本の翻訳というのはよくできている。もちろん翻訳者は翻訳を長くやってき、日々翻訳の技術を磨いているので目を見張るものがある。だが、やはりそれは原著に比べ劣っていると言えよう。このようなものの良し悪しを評価するのは、頭の良し悪しを評価するに等しいぐらい無意味だが、あえて劣っていると主張したい。

まず、よく言われることだが言語間では単語の指す意味がそもそも違うのである。 簡単な例を言えば英単語「see」と「見える」ではやはり意味が違ってくる。簡単だが、日本の「見える」には理解するという意味がないのである。 いや、正確に言えばあるかもしれない。私は中学生のときに友達と数学の問題を考えているときに「あ、見えたわ」と傍から見ればキモいことを言っていが、やはり一般的ではない。 知らないが数学の問題が見えるのは英語に感化されてると思う。話の相槌としての「なるほどー」というのを「あー、見えた、見えた」というのはいくらなんでもキモすぎる。

このように動詞など実際に存在しないものはわかりやすいと思うが、実際に存在する言葉でも同じことだ。 プラトンのイデア論的に言えば、イデアが違うのである。一般的に日本人やアメリカ人の考える珈琲はフランス人の考えるコーヒーとは違うし、一般に我々の思い描く教室とアメリカ人の思い描く教室もやはり違う。 上記のように、単語間の指し示すものが違うことは翻訳とは単語郡を似ているが異なる意味を持つ単語軍に変換することである。よってその訳は本来持つ意味とのズレを持ち難解になると言えよう。

単語から単語へと移し替えることは直訳に近く、もちろんそれだけでは翻訳とは言えないだろう。 だが、しかし翻訳でも言語を本当の意味で訳す事の不可能性は変わらない。いや、翻訳と言わず意訳だとしても英語と日本語間の訳土台不可能な話であることは揺るがない事実であると私は考える。 なぜならば、言語としての構造があまりに違うからである。中学高校で講師が言っていたかも知れないが。日本語は前から修飾するが英語は後ろから修飾していく傾向がある。 授業中と同じく、「こいつ何言ってだ」と感じた方もいるでしょう。つまり、日本語はどんなに修飾する言葉が長くても、名詞の前に置くのである。「僕は長年食べたいと思っていたりんごを買った」という文の「長年食べたい」という言葉は「りんご」よりも前にある。これを前から修飾すると言う。英語では、「I bought the apples which I wanted to eat for a long time」というふうに、「which I wanted to each for a long time」は「apples」の後ろにある。 これらの修飾の位置の違いからわかることは、これもまた中学校高校教師が言ってたと思うが、日本語は結論を最後に言うのである。それがいかなるりんごであろうと「りんごを食べた」ということがこの文の結論だが、見ての通り日本語ではりんごを食べたかどうかは、文の最後を見なければわからない。英語では逆である。 これらことは日本語は結論を最後に回すような論理構造が自然であると言えることの一つの理由である。そのため、英語の本または言語そのもの構造を変えないと日本語として完全に自然とは言えないのである。

他にもまだまだ言いたいことはあるが、翻訳というのはこのように非常に難しいことである。 原作に忠実など無理な話であるが故に翻訳という行為そのものを廃止して意訳を越し、本当に理解が容易なものを作るべきなのである。原作を読んだ人は彼なりの理解でそのゼロからまた新たなものを作ることが最善と言えよう。